【剣禅一如 より 一部紹介】
空無に徹した禅者
沢庵宗彭(一五七三~二(四五)の『不動智神妙録』や『太阿記』に説かれた、禅の心と剣の心は、柳生流の兵法家伝書である、『殺人刀』と『活人剣』に大きな影響を与えた。
『殺人刀』と『活人剣』は柳生宗厳、宗矩の父子二代にわたって工夫考案された柳生新陰流の技法、および心の持ち方の理論を詳しく述べたものである。
柳生流の剣法書のなかには禅の影響がいたるところに見られるが、柳生宗矩はどうして禅を学んだのであろうか。それには柳生宗矩と沢庵との交渉を語らなければならない。
宗矩は沢庵よりも四歳の年長者でありながら、かなり若い年代から交遊があったらしく、宗矩は沢庵の禅を若年から学んでいた。
柳生但馬守宗矩は三代将軍家光の剣道指南役をしていたが、剣法を家光にその技法の面においては、ほとんど残すことなく伝授していたが、心の持ち方の深妙の道理をその上教えなければならないと感じた。そのとき、宗矩は若いときから禅について師事していた沢庵宗彭を推挙したため、沢庵が関東に下向したのであった。
いったい、沢庵とはどの程度の禅の境地に達した人であろうか。それを知るには沢庵が臨終したときの様子を記した『萬松祖録』を見ればよい。
正保二年(二(四五)十二月十一日、枕辺にいる僧たちが沢庵の辞世の偈を要請した。沢庵は手をふってこれを拒否した。僧たちはあえて偈を重ねて書くように頼んだ。沢庵は筆をとって、ただ「夢」の一字を書いただけで、筆を投げ捨てて没した。時に七十三歳であった。
沢庵は死ぬ前に遺言していた。全身を後の山に埋めて土を覆うだけでよい。経を読む必要はない。僧を呼んでお齋をする必要もない。道俗から香資をもらってはならない。僧たちは平生のような生活をしていればよい。墓塔を建てたり、仏像を安置してはいけない。位牌も不必要、諡はいらない。本山の祖堂に自分の木牌を納める必要もない。さらに自分の一代の年譜など作ってはならぬ。これは沢庵の遺言であった。最後に自分を埋めたところに墓のかわりに一本の松を植えてくれ、と頼んだ。
この沢庵の遺言は沢庵の人となりをたいへんよくあらわしている。
禅僧が遺偈を残すのは長い伝統であった。死の直前、書き記したものならば遺偈に価するが、生前から書いているようなものは遺偈ではない。沢庵は遺偈を書くようなことはたわごとと考えていたのだ。痛快なのは読経もお齋も、香資もいらぬということだ。葬儀などやる必要はないということである。真個の禅者であれば葬儀などする必要はまったくない。現代の高僧など沢庵の爪のあかを飲んだらよい。
葬式をしないばかりではない。墓も位牌も禅師号もいらないというのである。さらに自分の一代の年譜や行状を書くな、ということは自分の痕跡をこの世に残すなということである。人間死ねば空無に帰することを大悟していたのが沢庵であった。それは真の禅者であった。この沢庵に師持した柳生宗矩の剣道書に禅の影響があるのは当然といわねばならない。
心の置き方
沢庵は剣道の修行とは人間から心の「こだわり」を取り去る修行法であるという。「こだわり」とは自由な心、無心な心ではなく執着する心をいう。この「こだわり」の心が剣道の修行においても大きな障げとなると説く。沢庵が柳生宗矩に与えた『不動智神妙録』は剣道の修行においていかにしてこの「こだわり」の心を除くかを説いたものである。
剣の勝負は現在の一刹那において決せられる。それであるからその心も動作も一瞬の停滞をも許すことができない。
こだわりの心は「留まる心」ともいわれる。過去にとり残れている心が留まる心であり、それがあると、剣の試合においては一瞬のおくれをとる。
こだわりなき心は無心である。無心にして剣を動かすとき、その究極においては「無刀の心」となる。もともと無刀の意味は素手をもって相手の白刃を奪うことであったが、さらにその解釈は拡大されて、太刀のない場合、自分の手なり、扇子なり、木の枝なり、身のまわりの近くにあるものを自由に用いる意味となる。さらに精神的な解釈が加えられ、剣における身がまえ、間合、その他、一切の動作が無刀の心より出なければならないという。
無刀の解釈がこのように変化したのは沢庵の影響であるといえる。沢庵は心の置き方をつぎのように説く。
心の置所。心を何処に置こうぞ。
敵の身の働きに心を置けば、
敵の身の働きに心を取らるるなり。
敵の太刀に心を置けば、
敵の太刀に心を取らるるなり。
敵を切らんと思ふ所に心を置けば、
敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。
我が太刀に心を置けば、
我が太刀に心を取らるるなり。
われ切られじと思ふ所に心を置けば、
切られじと思ふ所に心を取らるるなり。
人の構えに心を置けば、
人の構えに心は取らるるなり。
兎角、心の置所はないと言ふ。
これは敵と向かいあったとき、心をどこにも置いては
ならぬことを説いた沢俺和尚の有名な一文である。(以下略)
【近世日本における儒教理解より 一部紹介】
五世紀以後、日本人は、道徳、宗教、政治、教育、文学など文化の全領域にわたって儒教の影響を受けた。このことを無視して日本人の思想を語ることはできない。
特に近世は、儒教が日本人の思想の形成に最も深くまた広い影響を与えた時代であり、支配者層の思想のみならず、被支配者層の人々の考え方にもこの儒教の影響が及んだことは周知のところである。
儒教はまず道徳の教えであり、その教えを組織的体系的にとらえた理論である。日本人がこの中国の儒教を受入れ、しだいに日本的な儒教理解を形成する過程を述べるにあたって、本論では、日本人の「人間」の理解の深まりに儒教がいかなる役割を果したかという点を中心に考えることにする。
近世以前の儒教
近世における儒教の台頭を理解するためには、戦国時代の武将の間にすでに儒教に対する関心が高まっていたことを理解しておかなければならない。
戦国の武将たちは、その下剋上の風潮の中にあって、いかに自己の地位を確保するかということに苦慮した。そして下剋上の波にのって支配的地位にのし上がろうとした者も、下剋上の突上げに抗して自己の支配を確保しようとした者も、その川的を実現する心構えを説く教えとして、治国天下を説く儒教に関心を持ちはじめていた。近世における儒教の台頭に徳川幕府の奨励が大きくいていたことはいうまでもないが、この戦国武将の間における儒教への関心の高まりを無視することはできない。徳川幕府が突如として儒教を奨励しはじめたわけで(略)
「敬」-武士の倫理
儒教における「敬」という概念が、武士社会においていかに受けとめられたかということを追うことによって、儒教と近世武士の倫理思想とのかかわ力の核心、いいかえれば、儒教によって養われた近世武士の倫理思想の核心にせまることができると思う。そこで光の章と重複するところがあるが、近世武士社会における「敬」の理解の歴史的展開に焦点をあてて考察した旧稿(東京大学出版会『実存と社会』所収)を最後に置くことにする。前章までの文章をふまえて、この一文を読んで頂ければ幸である。
自敬の精神
徳川時代に儒教が興隆したことは周知のところである。儒教のうちでも朱子学が幕府の支持をうけて正統的な儒学とみなされたこともまた人々の知るところである。しかしわれわれは、幕府の支持をうけた朱子学が徳川時代の儒教思想を終始内容的に主導していたと考えてはならない。これまた人々の知るごとく古学がおこり陽明学が台頭して朱子学の地位は安泰ではなかった。たとえば―実は本論の主題にかかわる問題であるが―朱子学においてはその思想体系の要として「敬」が重視されていたけれども、古学・陽明学など朱子学に批判的な儒学が台頭した徳川時代の儒教思想界の趨勢は、「敬」に代って「忠信」・「誠」をもっとも重んずべきものとする傾向をおし出していった。しかもこの傾向は時とともに次第に高まっていった。寛政異学の禁、昌平校の官学化などによって、朱子学の社会的政治的地位の補強が幕府によってこころみられたけれども、「敬」を要とする朱子学(以下略)
【養生思想と武道 より一部紹介】
はじめに
柔道、剣道、弓道など、日本古来の伝統的運動文化である「武道」は、いうまでもなく闘争技術から発展してきたものである。戦いのための武技が人殺しを目的とする実用性を離れ、武技に習熟すること自体にその目的を意識するようになって、芸あるいは道という、いわゆる文化と呼べるものに発展してきたのである。そしてその過程において、形態的には、弓、馬、剣、槍などさまざまな武技が総合されて戦いに有効性を持っていた総合武術が、単一の武技の教習が中心となり、そこに流派が発生した。それぞれの流派では、技法を工夫し、「型」という日本特有の技法の伝承形態として、技の精髄を集約していったのである。そして「型」の伝承という教習の体系が整備されることにより、流派の道統は人から人へ受け継がれ、「伝統」とか「道」という言葉で表現されるような、日本独白の技術観を待った武道という文化が、今日の私達にまで伝わってきているといえよう。
武技が相手を倒すという実用性のみを目的とするのでなく、技に習熟すること自体に意義を見出し、武技の修練、修行が説かれるようになるのはほぼ近世初期からである。そこでは武芸の技法の修練が「心」の問題と相関的にとらえられ、いわゆる近世武芸論が成立する。近世武芸論は、心法、技法、修行などにわたる内容を理論化したもので、日本の他の芸能、能、茶、歌舞伎などと同様、身体を通じて技を磨くことによって心を深めるという、いわば実践的認識の世界を論じている。本来身体実践にかかわる思想は、禅で「不立文字、教外別伝」といわれるように、「身体で覚える」ものであり、理論的、思弁的認識を排除し、否定すらする考え方が強かった。武芸においてもその傾向が強く、当初武芸伝書は、技法の名称のみをただ羅列し、その意味内容は「口伝」とされた。しかし、江戸時代の太平の世となり、流派武芸が栄えて「型」の精妙さを競うようになり、武芸の理論化が進んでいったのである。
近世武芸論の思想についてここで述べる余裕はないが、一般的には、仏教、儒教の影響を強く受け、それら思想の語を借りて表現されている伝書が多い。しかし、仏教、儒教といっても、中国からの移入過程、それの日本化などから考えて、日本思想の特徴は、多様で混じり合った思想ともいえるのではなかろうか。したがって近世武芸論の思想も、禅とか儒教で分析的にとらえられるものではない。武芸の思想を、掘り下げ、日本思想の中に位置づける研究は、まだほとんどなされておらず、今後の研究をまたなければならない。
このような時点で、養生思想と武道の関係を論ずることは不可能に近い。そこで本稿では、養生思想を理解することに主眼を置くことにした。特に道教の養生法は、われわれの心身の問題を考えるうえでも、興味ある対象である。特に「気」に関する問題は、今後の武道思想研究の大きな課題であると考える。また近世武芸論の思想内容は、今後の研究により興味ある成果が期待できると思っている。
本稿では、今後の武芸論の思想的研究の問題意識を深めるための、基礎的な問題提起ができれば、という程度でしか書けないことをお許し願わねばならない。
益軒の養生論
日本に中国の医術が伝来したのは古く奈良朝以前であったといわれ、平安時代には『大同類聚方』や『医心方』、『長生療養方』などの養生書が編せられている。鎌倉時代になると、栄西の『喫茶養生記』が出るが、いずれも先に述べた中国の養生法を受け入れたものであり、栄西になると、仏教、陰陽五行説を加味している。室町時代になると明の医術が伝えられ、宋儒の性理の説を基礎にした、陰陽五行説、理気の説などが強く影響を与えてくる。この立場は近世に受け継がれ、近世の養生論は、宋儒性理論に立脚した明の医術の道統をもって発足したが、朱子学、陽明学、古学などが盛んになるにつれて、孝道が養生の本旨とせられ、天寿を全うすることがその目標となって、中国伝来の神仙不老の養生法の理念は影が薄くなる。しかし方法については強くその影響が残っていくのである。
日本の養生論についてくわしく述べる余裕はない。また大いに興隆する近世の養生論についても、何人もの例をあげて説明するゆとりもないので、ここで、日本の養生論を代表する貝原益軒(一六三〇~一七一四)の『養生訓』についてふれておきたい。
益軒はいうまでもなく朱子学者である。しかし朱子学者でありながら、『大疑録』を著わし、朱子学に疑問を投げかけるという批判精神の持主でもあった。太宰春台が『続大疑録』の中で、「宋儒の徒を以て、而も宋儒を疑ふ、誠に奇士なり」と評しているように、益軒の思想の独自性は、「疑わざれば進まず」という学問的態度と、一方で認めるべきものは認め(以下略)
【易筋経、洗髄経について より 一部紹介】
中国武術の歴史は古く、春秋・戦国時代(紀元前八~三世紀)にはすでに武術は相当盛んに行なわれていたらしく、多くの文献にその記録が出てくる。武術としては、手摶(拳法)と剣が中心であったらしい。中でも拳法は中国武術の中心であって、数多くの派に類別できるらしい。そして拳法は本稿の主題である養生術と非常に密接に関係している。特に呼吸法と導引かその中心であった。気を体内に蓄えて気を練り、気の力を強大にすることによって、拳法の技もその威力を発揮するのである。そこに気を養い、気を練る方法として、養生術が拳法と強く結びつくことになったのであろう。
たとえば、前に導引の所でふれたが、後漢の時代の華陀が五禽之戯という導引法を作った。これは鹿、虎、熊、猿、鳥の五種の動物の動作を模して考案したものであるが、中国拳法で名高い少林拳では、華陀の五禽之戯を参考にして少林五拳を考案したといわれている。その他、八段錦という導引も拳法にとり入れられている。
このように、拳法の源流ないし背景を探っていくと、古来の養生術との関連が出てくるが、その中で必ず出てくるのが、本書に収載している『易筋経』『洗髄経』である。この二経についての成立、作者、伝来などについては、俗説の域を出る事実関係は何一つはっきりしていないといってよい。『易筋経』は現在の中国でも、健康体操法として出版されているが、現在わかっているものもすべて清代後期(一八〇〇年以後)のものであるらしく、原典もはっきりしていない。本書に載せている両経も、江里口氏がかつて中国に渡ったとき、知人の中国人の協力で翻訳して持ち帰られたものと聞いている。したがって、日本で公開されるのももちろん初めてであり、その内容、文言についても校合、吟味されたものではない。本稿で筆者がこの両経について解題、解説を書くのは、まだ不明なことがあまりにも多く、研究もしていない現時点では不可能といってよい。前述の道教の養生論を参考にして、両経をお読みいただくよりほかはないと考える次第である。したがってここでは松田隆智氏の研究などを参考にさせていただいて、きわめて簡単にふれておくにとどめたい。
中国禅宗の開祖は、六世紀初の北魏のころに中国に渡ってきたというインド人菩提達磨であるというのが通説である。しかし達磨の伝記はきわめて不確実であり、不明なものが多いといわれる。有名な少林寺での面壁、慧可の雪中断臂の伝説なども、はるか後世にあらわれた伝説である。それはともかく、『易筋経』『洗髄経』は、達磨が少林寺に来て仏法を説きながら、弟子に身体を鍛えるために与えたものとされる。少林寺の僧達は、この二経に記されている秘法を行なって心身を鍛練した。これが少林寺の拳法の起源であるというのが定説となっている。達磨の伝記自体不明であるわけだから、これを史実と確定することは当然無理があるが、日本においてもそうであるように、武術のそもそもの源は伝説的なものが多い。二経の由来については、『易筋経』の序に詳しく述べてあるので省略する。
「易筋・洗髄」二経の内容は、拳法の技法というより、身体を強健にする鍛練法といえる。「洗髄とは、心の垢を洗って真の心光を出すことで、易筋というは、易は変を意味し、筋は勁を意味し、筋肉を鍛練して強靭ならしめるをいう」とあるように、易は「変る」という意味で、弱く、柔弱な筋、骨、膜を強靭なものに鍛練によって変える意味である。その方法は、身体が持って生まれた筋・膜の弛、変、弱、縮、壮、勁などの個人差を、揉み、打ち、叩きなどし、また各種の導引(体操)をすることによって、身体を内外ともに強健にすることである。その際、気を練り鍛えることが強調され、呼吸法、陰陽の気、日常生活の規制、瞑想など多くの具体的な方法が述べられている。
洗髄は「人の愛に生じ、欲に感じ、一落有形すべて仏諦を修めたもので、人間の五臓、六腑、四肢、百骸を一々洗浄する」ことをいう。つまり人間がさまざまの欲望によって汚染されてしまった体内の諸器官から、五体のことごとくを洗い清めることである。『易筋経』は「養形」を説き、『洗髄経』は「養心」を説いたものといってもよいであろう。
その記述の内容は、一口にいって雑多である。道教の養生術の方法を受けながら、禅語を多く用い、仏説により述べている所が特徴である。それに加えて陰陽説、儒教、比較的後代のものと考えられる医術・導引など混じり合ってまとめられている。推測するに、中国古代以来の道教的養生術に、禅が影響し、その後長い年月にわたって、さまざまな考え方や方法が加えられまとめられてきたものであろう。詳しい検討は今後の研究をまたねばならないが、中国の武術、その影響を受けた日本の諸武術の性格や思想を考えるうえで、一つの視点を与えてくれる資料であることは間違いのないところであろう。
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